2014年12月13日

アブラハムの不面目(創世記20章)

《創世記20章と12章》

いつも紹介しておりますスイスの牧師ヴァルター・リュティの説教集を見ますと、この20章の説教はありませんでした。自分の妻を妹といつわる。この物語はすでに創世記の12章に記されていたからでしょうか。今この物語が、20章において再び、舞台と、登場人物を少し変えて起きるのです。わたしたちはあの12章での物語を、アブラハムの罪、人間の罪の物語として読みました。12章の物語は、そこで起きた出来事が、起きた出来事を中心に、非常に客観的に記されていたのですが、この19章では、同じテーマ、同じ物語において、さらに人間の罪を掘り下げる、人間の罪を前面に出して語られようとされているのです。

まず最初に、この両方を比較してみたいと思うのです。

物語の冒頭、まず12章では住んでいる地方に飢饉があったという理由になっていますが、12章も20章も、アブラハムが旅をして移ってきたところから始まります。違うのは
12章11節以下、アブラハムが、まだアブラムという名前ですが、妻サライを説得しています。おまえの美しさのゆえに殺されてしまうから、自分の妹と言って欲しいと頼むのです。12章のさらなる違いは、サラの美しさがまずエジプト人に、それからファラオの宮廷で評判になり、サラがファラオに召し入れられるというふうに、少しおとぎ話的に、いわばシンデレラストーリーになっているということです。そして良くあることですが、妹が王様の后になると、兄も王様から取り上げられて、たくさんのほうびをもらうという物語の具合に、実は妻のサラがファラオのもとに召し入れられると、アブラハムも恩賞を受けとってしまうのです。本当は妻なのですから、実際まずいのです。

12章17節以下、20章3節以下で、共に神様が、ファラオあるいはアビメレクに災いをもたらそうとされるところは同じですが、20章では、まず神様が夢の中で、アビメレクに警告をされるのです。アビメレクは自分が間違っていないことを主張し、神様もそれを認めているのです。そしてすぐにサラをアブラハムのもとへと返すように言います。

続くところでは12章でも20章でも、ファラオあるいはアビメレクがアブラハムを呼び出して抗議をします。12章でファラオはすぐにアブラハムに立ち去るよう求めます。ところが20章ではアブラハムがアビメレクに弁解をするのです。殺されると思った。しかも本当のところサラは自分の腹違いの妹である。だからうそをついたわけではないと言うわけです。

12章でファラオはアブラムらを立ち去らせて物語は終わりますが、20章ではまずアビメレクが銀一千シケルをアブラハムに贈ります。それは美しい妹を持っていたことへのほうびでも、それを王宮に贈ったということに対する恩賞でもありません。そうではなくてすべての疑惑を晴らす証拠であると、アビメレクは言います。そしてアブラハムが取りなしをすることによって、アビメレクの妻たちがいやされるわけです。まだ起きていないように記されていたはずですが、実は災いはすでに下っていたというのです。

《20章は12章を下敷きに記された物語》

さて12章と20章を比較しましたが、ただ比較するだけでは、あまり意味がありません。12章の方が古く、20章はこれを元に記された物語であると言われます。12章ではアブラハムはサラを召し入れたことの報償をもらいますが、20章ではそんな話はありません。むしろ最後のところで、疑惑を晴らすための贈り物というものが出てきます。やましいところはないのです。サラは召し入れられますが、何事も起きない前に、神の警告があります。サラは召し入れられますが、何もやましいことは残らない、疑惑はないということです。12章ではたんたんと客観的に記されている反面、アブラハムの正しさ、サラの状況など疑問が残ってしまうわけです。しかし20章ではそういう部分を極力取り除く配慮がなされているわけです。

しかし皮肉なことが起きます。アブラハムがサラを妹といつわる物語は、説明を加えれば加えるほど、アブラハムの罪が浮き彫りになってしまう、そういう物語なのです。たしかに20章ではサラをハーレムに入れる褒美をアブラハムはもらわないし、サラと王様の間に何があったかなどという詮索の余地もありません。では、なぜサラを妹といつわったのか。それは自分が殺されると思ったからであるというのは12章も20章も同じですが、20章11節以下でアブラハムは何と言っているでしょうか。

アブラハムは答えた。 「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです(創世記 第20章11節)

 この土地は神を畏れることが全くないと、アブラハムは断罪していますが、実は正反対なのです。

その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。 「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。
彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
(同3−5節)

夢の中に神が現れる。アビメレクは神を畏れているのです。すぐに主よと呼びかける。そしてあなたは正しい者でも殺されるのですかと訴える。妹だと言ったのはアブラハム自身だし、サラ自身も、アブラハムを兄だと言った。アビメレクにはやましい考えもないし、不正な手段を用いて、サラを無理矢理取り上げたわけでもないのです。

神様もはっきりとアビメレクの正しさを認めます。だからこそ夢の中で前もって警告をしたと言うのです。神様はアブラハムを預言者と呼びます。そしてアブラハムが取りなしをしてくれると言うのです。しかしもしサラを返さなければ、アビメレクも家来も皆必ず死ぬと言うのです。どうなったでしょうか。

次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。(同8節)

アビメレクも家来も皆、神を畏れるのです。神を畏れないから、わたしを殺すなどと言うアブラハムの言葉は実はまったく当たらないのです。むしろ神の守りを信じないで、自分の妻を王様のハーレムに入れて、自分を守ろうという、アブラハムこそ、神を畏れていない存在であることに気が付いていないのです。


《アブラハムの不面目》

ゲルハルト・フォン・ラートがこう記しています。

「神の畏れに関して異教徒に凌駕されてされてしまったということは、アブラハムにとってはなはだ不面目なことである。異国の王のこの誠実さに比べれば、自分の行動様式を流浪の身の不確実さということで動機づけるアブラハムの釈明は、やや精細を欠いていると言わざるを得ない」(G・フォン・ラートATD「創世記上」40頁)。ずいぶんと控えめな表現だと言わざるを得ません。「やや精細を欠いている」ばかりなのですから。

こうも言います。「思想内容から見て、これほど複雑で問題性をはらんだ族長物語は他にない」(405頁)。

確かに7節と17節にアブラハムが預言者だという思想が入っています。罪を犯した?アビメレクのためにアブラハムが祈り、アビメレクは生き続けることができると神は告げ、アブラハムはこれに応えてアビメレクのために祈るのでありました。

しかしそれでもなお、アブラハムの不面目。これが20章の題とならざるを得ないのです。


《12章と》

わたしたちは12章を読んだとき、これはまさにアブラハムの罪の物語であると言いました。20章で、アブラハムを少しでも弁明しようと、書き加えられた物語は、さらにアブラハムの欠けをあぶり出してしまう、そういう物語になってしまったわけです。

最後に12章の時に語られたことを少し振り返ってみたいと思うのです。

主はアブラムに言われた。
行け!
あなたの地から、あなたの親族から、あなたの父の家から、
わたしがあなたに見せようとしている地へ。

この突然の命令にアブラハムは従いました。劇的な物語。神様の命令とアブラハムの服従。そして旅立ち。しかしわたしたちはその直後において立ち止まってしまったのでした。
劇的な仕方で命令を受け、約束を受け、これに服従し旅だったアブラムが、よりにもよって自分の妻をエジプトのファラオのハーレムに入れてしまう。異境の地における危険。美しい妻を奪うために、その夫は殺される。だから妻ではなく、妹だと言ってほしい。そうすれば命を助かるとアブラハムは言いました。しかしそれは同時に結婚の解消であるという指摘もありました。

アブラムの過ちは明らかにされました。ファラオはアビメレクはアブラハムを非難します。
アブラハムに正しいところは全くありません。アブラムに命令が、約束が与えられた。しかしその直後に、すべてが反古にされてしまう、女の祖先となるべきサラがハーレムに入ってしまう。妻サライ「まさに約束を受けた本人、アブラムの中に、この約束の最大の敵を見いだしたのではないか」という言葉がありました。神様の約束の最大の敵は、約束を受けたアブラハムであったのではないかという厳しい非難です。
 信仰の模範とされるアブラハム。しかし信仰者という者は、低俗なこと、いやしいことから超越して、清らかに生きる、何か、特別な者に守られて生きているのだと考えているなら、そういう考え方は改めていただきたいというリュティ牧師の言葉を引用しました。
わたしたちの生活の中に神様が入って来なければならないとこの牧師は言うのです。
しかし主なる神様はここに来られ、罪人を打たれるのです。しかし打たれたのはアブラハムではなかった。ファラオでありアビメレクであった。ファラオの前でアブラハムは何も言えませんでした。それをリュティ牧師はアブラハムの赤面であると言っていました。ではアビメレクの前ではどうでしょうか。アブラハムは雄弁です。弁解をする。まさにわたしたちの姿です。自分はやましいことは何もないと主張しないではいられないのです。赤面して黙るよりも恥ずかしいのではないでしょうか。

神様は人間の弱さ、失敗を通しても、神の国を建設される。「貧しい祈り、乏しい聖書読書、気おくれしながらの聖餐への参加、また問題を抱えながらの礼拝出席、それらはそれぞれに、アブラムのような、失われた息子の我が家への帰還である」と述べ、大いなる神様を心に刻みつけられた者は「赤面しつつではあるが、感謝のうちに仕える志を新たにされて家路につき、また明日からの仕事に従事する事ができる」とリュティ牧師は12章のための説教で結んでいたのでした。20章のテーマは全く同じであると思います。
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2014年09月25日

ソドムとゴモラに降る火(創世記19章)

《神の怒り》

神様の怒り。神様の罰。私どもはこの言葉が非常に軽々しく使われるのを耳にします。もうずいぶん前のことになり、そしてその後も大きな災害が繰り返されていることに驚かざるを得ないのですが、あの阪神大震災があったとき、海外のある有力者が、震災が、おごっている日本に対する神の罰であると言ったという記事があったことを、今さらながら驚くのです。確かにそれはあの人には神の罰が下ったと、その人の災難について言った例に他ありません。

あのスマトラ沖地震の大津波のことを、現地の人々が神の罰であると言っていました。かならずしも私どもの知っている神様という意味で使われているわけではありませんが、自分に降りかかってくる災難について、これは神の罰であると、いわば自分に言い聞かせた例です。

そして東日本大震災です。正直、この論点で語りたくありません。私どもの国に起きたあまりにも大きな災害。確かに「神の罰」という言葉はありましたが、反日運動や、カルトがキリスト教会の礼拝妨害を行った時にこの言葉を口にしたとの報道は聞きました。

自然の災害に対して、これは神の罰とは誰が言えるかとも思うのです。

神の罰。神の怒り。でもそれが人間の口にのぼる時、あまりに無責任なのです。なぜ人間が神様の心の中を知ることができるのか。ましてや罪もないと言われますが、小さな子供までが命を奪われてしまう災害に対して、これは神様の怒りの結果の罰なのであると言えるでしょうか。これは今、神様が罰を与えておられるのであると、私ども人間が指さして言うことはできないのです。

しかし旧約聖書19章には神が町を滅ぼされる物語が記されている。前回読んだところではっきりと次のように言っていました。18章の17節以下のところです。

主は言われた。 「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。
アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。
わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
主は言われた。 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。
わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(創世記第18章17−21節)


ソドムとゴモラの罪が非常に重いということを、神様が聞かれたのだということを、私どもは知っているのです。そして前回読まれました、アブラハムと神様との対話。アブラハムのとりなし、正しい人がソドムには、「もしかすると、十人しかいないかもしれません」という取りなしに対して、主なる神様の言葉、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」から、神様が罪が非常に重いソドムを、滅ぼされるかもしれない、いや、まさに滅ぼすために、ソドムに向かっておられるのだということを知ってしまっているのです。

《御使いたち》

神様が町を滅ぼされる物語です。ソドムとゴモラの罪が非常に重いということが言われています。非常に重い罪のゆえに町を滅ぼされるのです。
ソドムとゴモラは死海のほとりにあったとされます。もちろん現在遺跡が残っているわけでもありません。死海という湖も奇妙な湖で、その湖面は海抜マイナス393メートルですから、地中海の海面から見ると、400メートルも低いわけです。言うまでもなくヨルダン川が、そして年がら年中流れているわけではないにしても、他の多くの川が死海に流れ込んでいるのですが、死海から流れ出す川はありません。

ご存じのように死海の水の塩分は30パーセントくらいあります。海水の塩分が3パーセントくらいですから、その高さがすぐにわかると思います。古い文書には、今ではそれほどひどくないにしても、この海が有毒のガスを発し、またアスファルトがいたるところにたまっていたというのです。ロトの妻の物語、塩の柱になったという物語にあるように、ソドムとゴモラが滅ぼされた結果と、今の塩に充ち満ちた死海の風景とが結びあわされていたのかもしれません。

二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、
言った。 「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」
しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。
(同19章1−3節)


アブラハムの時と似ているのです。しかしまたロトはもう都会の人になっていたことも見て取れます。町の中に自分の家を持ち、また後で出てきますが、町の人たちと親戚関係を結ぶようにもなっていました。アブラハムのように、しかしまた町の住人であるがゆえに、ロトは町の門の所に座っていました。そして二人の御使いを見るとすぐに立ち上がり、丁寧に、また熱心に、彼らを迎え入れようとするのです。しかし二人はまずは断るのです。広場で夜を過ごしますと。しかしロトの熱心な勧めに、二人は応じます。二人は町の中のロトの家を訪ねます。そしてロトは二人をもてなすのです。

二人の御使いの目的は、ソドムの町の視察です。非常に重い罪を目で見て確かめるのです。だから広場で泊まろうとしたのかもしれません。しかしその夜すぐに、非常に重いと記されていた罪について説明不要なほどの出来事が起こるのです。

彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、
わめきたてた。 「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(同4−5節)


聖書の言葉に好き嫌いがあってはいけないかもしれませんが、5節の言葉は新共同訳になって、耳に少しおだやかに響くようになりました。なぜなら口語訳では次のようになっていたからです。

ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。

「知るであろう」とは性的な関係を言う言葉です。つまりこの旅人二人に乱暴をさせろ、暴行させろと、若い者から年寄りまでが押しかけて要求するわけです。ロトがそれに対してとった行動はまた不可解です。

ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、
言った。 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。
実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(同6−8節)


二人の旅人の代わりに、自分の二人の娘を好きにして欲しいと言うのです。ロトのこの対応の判断は私どもにゆだねられていると言います。古代オリエントの価値観では、ロトのこの対応は旅人を守るという尊い行為であったであろうとも言います。しかしまた逆に、今、創世記が私どもに語る語り方は、かならずしもそれを正しいこととして語っているわけでもないというのです。ロトが取った行動は正しいのか正しくないのか、それは私どもにゆだねられていると言うのです。

男たちは口々に言った。 「そこをどけ。」 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」 「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」 そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。
二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、
戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。
二人の客はロトに言った。 「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。
実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。(同9−14節)


「ヴァ イェヒー ヒメツァヘーク ベエネー ハタナウ」、「婿たちの目には冗談のようであった」、「婿たちの目にはお笑いであった。」この「冗談」とか「お笑い」と訳さ「ヒメツァヘーク」という言葉は18章の前半で出てきた、「サラのイツハク」、つまり「サラの笑い」と同じ言葉なのです。そのとき「笑い」は神様の約束に対して向けられましたが、ここでは「笑い」は神の裁きに向けられているわけです。サラはその誤りを赦されましたが、ソドムの人々はおろか、ロトの婿たちも赦されることはないのです。ロトの警告に対して、冗談だろと言う娘婿たち、ついに神の罰、神の裁きがはじまります。

御使いたちはロトをせきたてて避難させるのです。

夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。 「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」
ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。(同15−16節)


《ロトの優柔不断》

ロトの優柔不断と言うことが繰り返し出てくるのです。ロトのためらい。もうだめだという言葉が記されます。しかし御使いたちは手を取って、ロトの一家を脱出させます。

彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。 「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
ロトは言った。 「主よ、できません。
あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。
御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」(同17−20節)



命がけで逃げよとの言葉に対しても、主よできませんなのです。ロトは目の前にある小さな町に逃げ込ませて欲しいと願います。そしてその願いは聞き届けられるのです。

主は言われた。 「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。
急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」 そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。(同21−23節)


《ソドムとゴモラに降る火》

夜が終わり。朝になります。ロトら一行は小さな町ツォアルに到着します。そしてソドムとゴモラの上に起きた出来事が語られるのです。

主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
(同24−25節)


ヴァドナイ ヒメティール アル ソドーム ヴェアル アモラー
ガフェリート ヴァエーシュ メエット アドナイ ミン ハッシャマイーム

ヴァヤハフォーヒ エット ヘオリーム ハエール ヴェエット コル ハキッカール
ヴェエット コル ヨシュベー ヘオリーム ヴェツェマー ハアダマー

主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、
これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。(同 口語訳)


独特の文体で書かれていて、おそらくゆっくりと読まれたのであろうと言います。聖書は朗読されるために、人々の前で読み聞かされるために記されているのです。神の裁きが語られる。神の罰が読み聞かされるのです。

主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。


いったいこれは何を意味するのでしょうか。いったい何が起きたのでしょうか。手元にずいぶん古い本があるのですが、今でも改訂され、再版され続けている本に「聖書は正しかった」という本があります。これに解説図があるのですが、死海の沿岸で大陥没が起きて、このため町々が壊滅してしまったというのです(この説についてはv.ラートも言及)...

さて有名な伝説です。

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。(同26節)

 「振り返ってはいけない」の言葉をロトの妻は守れなかったのです。塩の柱になってしまった。恐ろしい話ですが、実際、死海にはそのような塩の柱があり、またこれがロトの妻の塩の柱だと伝えられているものがあるくらいです。

ソドムとゴモラの滅亡を、取りなしをしたアブラハム自身も見ています。ソドムとゴモラを見下ろしたというのです。

アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、
ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。
こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。(同27−29節)


《ソドムとゴモラの物語を読むこと》

 ソドムとゴモラの物語を私どもはどのように読めば良いのでしょうか。伝説でしょうか。ソドムとゴモラの罪、頽廃した人間たちに対するさばきの物語でしょうか。

 ある説教者は(ホルスト・ディートリッヒ・プロイス、Hoeren und Fragen)、ソドムの住民たちの、御使いとロトたちに対する暴力がひきがねになった、神のさばきの物語であると言います。ですから二人の御使いが町にやってくるのは、この町の試験のためであり、町の住民は、それがいったいどこから来るかを知らないのです。さばきの中での死、それは罪のないものまでも及ぶことに言及し、そしてさらには自然災害、事故にまで思いを及ぼしているのです。この人はすべての災害が神のさばきではないと言います。もしそうならば、災害はもっと多くなるだろうとさえ言うのです。そしてすでに私どもにおいても繰り返し語られたことですが、この人は、そのような災害において、人間が、さばきや罰ということを語るべきでないことを言います。最後に決断されるのは神であるということを強調して、たとえ暗闇の中でも、私どもが神を信頼することを求めておられるのだと言います。そして旧約聖書が私どもにたとえ現実にそれを自分の手に感じることができなくても、神と共に、一日いちにち歩むことを助けてくれると言っているのです。

30節以下の部分は、私どもを困惑させます。理解しにくい部分なのです。

ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。
姉は妹に言った。 「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。
さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」
娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。
あくる日、姉は妹に言った。 「わたしは夕べ父と寝ました。今晩も父にぶどう酒を飲ませて、あなたが行って父と床を共にし、父から子種をいただきましょう。」
娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。
このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、
やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。
妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。(同30−38節)


 37、38節にありますように、モアブ人、アンモン人という民の由来の説明になっているのは確かですが、この二つの民がロトとその娘たちとから生まれたという物語なのです。この物語の理解についても両面の見方があります。当時のよそものから夫を選ばないという伝統を鑑みれば、ロトの娘たちの行為は子孫を絶やさないという事に関して賞賛に値するものだし、またその子孫は父とその娘という、血で言えば純粋の中の純粋の血筋だ、これもすぐれたものである、モアブ、アンモンというのはそういす優れた血筋である、そういう理解があっただろうと言うのです。

 それとは全く反対の理解の人もいます。この人(G. v. ラート)はロトの生き方に注目します。間接的ではあるが、ロトの一家の近親相姦に対する厳しい判断が含まれているというのです。ロトの人生は、それによって内的にも外的にも破綻に終わったというのです。彼はまずアブラハムとは違い、豊かなヨルダン渓谷の魅惑に引きずり込まれ、自分の主張をソドムの人々に押し通すことができず、そして神のさばきの前に決断を渋り、また神の御使いたちを信頼できず、最後に酔っぱらい、自らの意志を持たないただの道具として用いられてしまったか。19章全体がいわば、ロトの人生に対する糾弾であると考えたのです。

 もう一人最後に紹介したいのは、この物語を通じて、罪を罰しないではおかない神を語ろうとする人です(W. リュティ)。大災害、あるいは人間の残酷なわざ、この場合はアウシュビッツですが、そのような悲惨を前にして、すべてをおさめすべる神というものに対する疑問に対抗しようとするのです。このロトの物語は、明瞭に、神が罪を憎み、罰することを、私どもに教える物語であるというのです。そしてまたそのようなさばきを私どもが傍観者として見てはいけないという物語でもあると言います。厳しく禁じられていたにもかかわらず、ロトの妻はそのさばきの光景を見ようとして塩の柱となってしまったのでした。一方でこの人はロトを正しい人であるが、もろい人、脆弱な信仰者として語り、そのような弱い者がいかに助けられていくかという物語であると説明します。ロト自身自分自身を救うという勇気にさえかけていた。いやいやながらせき立てられて救われるという姿を私どもと照らし合わせるのです。

 聖書を、特に旧約聖書を読んでいると、この19章のように理解しにくいことが起きることは少なくありません。今日はあえていくつかの説教者たちの説明を、その内容が大なり小なり異なっていたとしても取り上げさせていただきました。しかしひとつだけ確かなことはこのソドムとゴモラの物語が、神のさばきとはこういうものであるとして聖書の他のところに引用されていることです。ルカによる福音書の17章では、主イエスご自身が終わりのときの様子としてこの物語を引用していますし、ペテロの手紙二はもっと恐ろしいのです。

また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。
しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。
なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。
主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。(ペトロの手紙二第2章6−9節)


聖書を読み、伝え、御言葉を語る人々が、長い間にわたって、人々を戒め、また正しい人はかならず助け出されるという、励ましの物語として読まれていたことだけは確かであるのです。
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創世記18章

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